2012年12月26日

30周年サンキューブログ(36/39)

我発の心
岡山の方からいただいたものです^^

私の実家の傍の寺では、毎年一般の方が12時前後に出向き、108つの除夜の鐘を鳴らすことができます。今年も今までと同じように除夜の鐘の一つを突いてまいりました。そして、その後に賽銭を投げ、お参りをしてまいりました。

これまで続けてきたお参りのときには、社業や家族のことを祈っていましたが、自分の中では意識をしていたわけではないのに、自然とLOMのことや現役メンバーや皆様の家族のことまで祈っていました。役職がそうさせるのか、それとも、自然とそういった心境になるのかは自分でもわかりませんが、本当に皆様をはじめ、ご家族の方まで今年一年が幸多き年になればと思っております。

また、自分としても、これまでと全く違う心境を実感しています。今日ほど、今年一年がどうなるんだろう! 楽しみで仕方がないと思った日は、これまでLOMの委員長や日本JC副委員長をしたときにも思ったことがなく、だからこそ、今年一年が充実した、新たな発見や進化を成し遂げることができる予感がしています。

昨年末には多くの方から「来年は忙しくなるよね」と言われて来ました。が、よく言われていることではありますが、「忙」という文字は「心を亡くす」と書きます。今年一年、何があろうとも、「忙しい」のではなく、「充実」しています!と胸をはり、何事にも屈することなく、前進していきます。

ぜひ、この正月に皆様にお願いがあります。ご家族のかた、特に奥様や最愛の方に、今年一年、社業やJCでどういったことを自分が行い、何を成し遂げたいと考えて、どういった夢があるのかを話していただければと思います。そして、自分を取り巻くコミュニティーやまちのことを今どう考えていて、何が問題であり、こういう風な環境にしていきたいよね!と話していただきたいと思います。今更、そんなことを!といわず、ぜひ、語りあっていただき、年始にあたり、新たな気分で今年具体的に行動を起こしていく今の思いを伝えていただければと思います。

「歴史と伝統あるJCだからこその【らしさ】を尊重しつつ、これからも存続していくべき団体としての進化を遂げる一年」としていくことをここにお誓いし、今年一年が皆様にとりまして最高の一年となることを心の底から祈念し、初めての理事長日記とさせていただきます。



【 我発 ~たゆまぬ情熱とともに~】

予定者として、皆様から承認を頂いてからの理事長の仕事というのは、今年何をしたいかといったことより、今の岡山JCに何が必要なのかを自分なりに答えをだし、その答えを一つのゴール・目的として、その結果を導く為には、どのようにしていけばいいかを自分なりに見つけることだと考えていました。

その為に、時間は余りありませんでしたが、多くの方からご意見を頂き、これまでの経緯や過去の歴史を教えていただき、それらの情報を持って、なんとなくですが、ボヤーとすべきことが見えてき始め、それから自分で何をしたいのか、何をすべきなのかを考え始めてからは、目的とすべきことを交互に考え、抽象的なものから徐々に具体的になってきました。

まずは自分の中に様々な思いや考えが浮かんできて、更にそれを他の方と話していく中で、修正できるところは行い、全く見えていなかった部分やかけていた部分を補うことにより、自分なりの所信を書き上げました。

それから、数ヶ月がたち、1月10日の第一回執行部理事合同会議を向かえ、さらに1月12日の新年定時総会を迎えるに至りました。

昨年までのLOMとして、長期ビジョンに基づき、活動・運動のベクトルを変えることなく、しかし、自分なりの達成すべき、もしくは達成したいと思ったことを皆様に伝えてきました。その為、これまでの継続していった内容と、全く新しいことにもいくつかチャレンジしようと決断しました。その結果、副理事長や常任理事をはじめ、各委員長にも忙しい日々を過ごすことになったかと思いますが、単なる継続ではなく、なぜそれが必要であり、どのようにすれば達成できるのかを考えるのであれば、それはきっと重要なことであり、無駄なことは一つも無いと思っています。そして、それは忙しい日々をただ単に過ごしたのではなく、【充実した】日々を過ごしていたのだと考えます。

12日には、本当に多くの方からお褒めの言葉をいただきましたが、それは何ら私がしたことではなく、現役メンバーの皆様に理解していただき、具現化してきてくれた成果の一つだと思っています。更に多くの方から、「やっと一息」「とりあえず最初の山場を」といったお言葉をいただきましたが、自分としてはまさにはじめの一歩が踏み出されたのであり、安堵する暇はなく、始まってしまったからこそ、あとは皆さんを信じて、突き進むだけだと思っております。

最後に、例会の時に皆さんに差し上げた質問の自分なりの答えを見つけられたでしょうか? もしくは、そのヒントとなる発見があったでしょうか? 今すぐでなくてもかまいません。じっくり考えてみてください。

○ なぜ、我々はJC活動を行っているのか?
  >よく言われている「明るい豊かな」といったことではなく、もっと本質を考えてみたとき、それは何の為なのか?
○ 会員の拡大の必要性
  >予算組みや事業を展開する為だけでなく、なぜ拡大が現在必要とされているのか?
自分にとって、大切な言葉、文章、書籍、人物、師匠などいったいどれだけの「もの」にめぐり合うことができるのかは、その人の人生にとってとても大切なことなのではないかと思います。

たまたまある本を手に取り、何気にぺらぺらとページをめくっていく間に、時間がないとか、暇がないとか関係なく、ただひたすらに没頭し、すべてを読みきり、更にその本のことがなんとなく頭の片隅にあったり、いつまでたっても本棚の「肥やし」として部屋にあるだけでなく、ふと疑問になったり、迷ったり、霧の中に迷い込んだときに一筋の道だけがはっきりと見えてくるようなそんな本に出会うことができるのは、とても大切だし、幸せなことでもあるのではないかと思うのです。

先日、あるキーワードでネットサーフィンをしていました。検索結果でヒットしたものを確認しながら、なんとなく自分の想像していたものにめぐり合わないなと、更に数ページに渡り、結果を見ているときでした。

ふと、テキスト表示に気になるものがあり、そのサイトをクリックしたときに、そのサイトはただ単にテキストだけが書かれていたHPだったのですが、見事にハマりました。偶然とはいえ、こんなサイトにヒットするとは思ってもおらず、深夜でしたが、そのテキストをずっと読みふけっていました。更に、すべてのページをコピペし、ワードファイルにまで落とし込み、今、自分のノートブックのデスクトップに保存しております。

今回、発見したものは、見事に「JC」と「Jaycee」に関してのものでした。99年に入会して以来、自分の性格も相まってか、JCに対する疑問であったり、時折ふとなぜ?と思ってみることであったりしたことが、本当に霧のなかで彷徨っていたのに、ふと一本の道が明確に見えたものでした。様々な人からほんとにごく僅かに断片的に聞かされていたことや、自分で感じていたものが、すべてつながった気がします。

この文章が作成されたのは、1995年であり、その当事の状況といま置かれているJCの環境では違うのは当然ですが、JCとは! Jayceeとは!といったことの本質は、30年たった今も変わるわけはなく、一筋の道はそれに携わる人によっては違うものにみえるとしても、誰かのためにはとっても重要なものになってくると思うのです。

ぜひ、この理事長日記の場を使わせていただき、次回以降の日記にその内容を小出しに出していければと思います。すべて出しても良いのですが、余りに長いので、その度ごとに私的意見も交えて出せればなと。

乞うご期待!(^^♪
1. Jayceeの参加意識

 JCの参加意識は大きく分けると二つのパターンに分けられる。それは「他動的参加」と「自発的参加」である。会員は他人から引っ張られて行動するのではなく、JCと自分とのかかわり合いについて真剣に考え、明確な目的意識をつまり、「自分はJCにおいてなにをなすべきか」という考えを明確にもつべきである。そうしないとJC運動は決して自分のものとはならず、常に自分とは関係のない所を通過して行ってしまう。

 ここに一つの例がある。それは’72年度アメリカJCのロナルド・アウ会頭の例である。

 彼がJCに入会したとき、彼はJCにはあまり大きな魅力は感じていなかった。彼は人に誘われて参加し、仕事が忙しいために適当にやろうという意識を持つ一種のスリーピング・メンバーであった。

 ある年彼は、その次年度のプログラムについて相談をうけた。そのために彼はそのプログラムに興味をもち、いろいろと自分の意見を加えてゆくうちに魅力を感ずるように変わっていった。そしてそのプログラムに3年間強い魅力を持って参加するうちにサブディレクターとなった。

 このとき彼は次のことに気がついたと言っている。

 それは「自分は仕事が忙しくて出られないという意識から脱却し、自分からプログラムに興味をもたなくては参加しない」ということである。つまり、「プログラムが良くなくては会員は参加しないし、会員が興味を持たなくてはよいプログラムは出来ない」と言うことである。

 ついで彼は自分のLOMだけでなく他のLOMにもそのプログラムをすすめることにより多くの時間をとりたいと思うようになり、その活動の中でLOMの理事長をやってみたいと思うようになった。

 自ら求めたLOMの理事長に続いて、さらにハワイ州の副会頭となり、‘71年には全米大会において36時間23回の投票の結果、U・S・Jaycees(国家青年会議所)の会頭となるクライマックスを迎えたのである。

 この彼の意識が変化してゆくプロセスの中でもっとも大切なことは、「自ら進んで運動に参加する」という運動への参加意識がないと、何も達成できないということである。

 もし、自分に主体性のないプログラムを行ったとして、はたしてそれで楽しみがあろうか。本当に楽しいこととは、自分自信が自らの意識と主体性を持って参加することである。

 他動的な考え方でJC運動に参加しても、たとえばそれが10年間という長い期間の参加であっても、他動的力によって動かされているセールスマンが「その日その日を何の進歩も研究もなく、10年間セールスをして自分は10年のキャリアがある」と言って経験年数を誇る以外に他人に誇示できないのと同じである。自己の意識の積極性が見られないJCで、JC歴を前にかざすとしても、それはJC運動にとって意味をもたないものである。

 つねにわれわれが考えなければならないことは「自分とJCとのかかわり合い」であり、「自分はJC運動の中で何を目標に参加するか」という参加と目標意識である。

 また運動の中で悩みをもつとき、それを解消するのは自分が自分で解消するのである。これが、自らすすんでの参加ということである。

 会員は一人ひとりが常に「自分はJCの中の何年間で何をしよう」という目標意識を明確にもって、自らの運動に挑戦しなければならない。たとえば、人間的成長でも、友人をつくることでも、地域の開発でも、何でもよいのである。

 そしてもっとも大切なことは、自分の求める目標にプライオリティ(優先順位)をつけて、ひとつひとつ達成してゆくことである。

 ゴルフやマージャンなどのみの付き合いを続けていても何もでてこない。必要なことは常に何を考え、どういう人生を送ろうとしているかということである。

 JCは常に「否定と創造」ということを考えて生活すべきであり、これは経営においても同じことである。

 例会や大会などいろいろの集いを見ていると、JCほど残念な参加の仕方をするところはないと思う。心構え、時間の厳守、ゲストへの態度、会議の進め方などを見ていて、これが若い青年経営者といわれる人間の集いであろうかと思うことがある。人間的なエチケットをもっともつべきである。たとえば、地方大会とか全国大会とか世界会議とかを例にとって見ても、もっと知らない各地の会員と積極的に暖かい心で語り合うべきである。

 JCにはいろいろの動機で入会する。それはどんな動機でも自由である。ただ大切なことは入会してから最初に、正しい”意義あるJC運動”をしなければならないという動機づけである。そこで自分の習慣を打ち破ることである。

 そのJC運動とは人に引っ張られて他動的に行うものではない。それは自分が自分の意志で行う自動的なものである。そしてJC運動に最も必要な力となる人は、自分の能力を自分で高めようと言う意識の人である。

 人間にとって20~30歳代の人生の重要な転換期を何もこれといったことを為し遂げずにすごしてしまうことは、全く金と時間の浪費である。この時代にこそコミュニティを軸とした意識で、JC運動に参加することが自己形成に役立つのである。

 スリーピング・メンバーには二種類ある。それは、(1)完全に意識の無い人と(2)現在行われている運動に魅力の無い人である。そしてスリーピングの原因の一端はリーダーの側にもある。つまり参加型のリーダーシップがあるかどうかいうことも、その大きな要素の一つである。出席率だけでスリーピング・メンバーを見てはならない。大切なのは、目標意識であり参加するためのプランニングであり、参加する人それぞれがもつ心の姿勢のもち方である。

 自分が何のためにJC運動に参加しているかを知らないとJC運動は動いて来ない。もしJCに入らないでそのまま生活しているとしたら、今の自分とどう違っているかを考えてみること、本気になってJC運動に参加することによりはじめて友人を通して街を知ることによって、友人がふえるのである。これが真に友を得ると言うことである。

 個人参加の参加意識とその責任と義務を忘れていすぎる傾向が、現在のJC運動の中で強い。
2.JCの目的

 JCの最終的な目的は、社会の開発と個人の開発である。そしてJC運動とは、その社会を開発する諸事業の実践過程を通じて、自己の訓練をする所で、それは自分のために行う運動である。

 自分の生活をよくするということは、自分の地域社会(コミュニティ)がよくならなくては達成されない。自分のためにする運動とは、結果的には自分の地域社会をよくするための運動でもある。これはコインの両面のようなものである。

 社会の開発とは市民の「考える質の向上」をすることである。つまり、その街は「そこに住んでいる市民のレベル」以上には、よくならないということを忘れてはならない。

 JCが常に社会の中で明日を期待されるリーダーとして市民を動かし、新しい社会を創造し、開発してゆくためには、自ら一市民として社会開発の実践の場を通じて個人を開発することが必要である。

 JCに一番かかわり合いのある所は自分の住んでいるコミュニティであり、さらに大切なことはその中で街の人びとと話合う場をつくることである。そしてコミュニティとともに進めてゆくプログラムこそ、よいプログラムであるといえる。また、コミュニティの人の意見を聞くときには、JC自体の考え方がしっかりしていなければいけない。

 たとえいくら社会の開発と言っても、住む人間が開発されなければそれは開発ではない。人間の開発がなければ社会開発は不可能なのである。


3.JCの基本理念

 住みよい街づくりはJC運動の基本理念である。ところが形式的にこの言葉をもて遊んでいる場合がある。そのような状態の中からは真の「自分とJCとのかかわり合い」はでてこない。

 明るい豊かな街づくりは理想であり目的であるが、数人や限られた人数で行っても運動の展開にはならない。多勢が力をよせ集め、街を明るくする運動に参加することによって、はじめてよい街づくりができるのである。今まで、この討論があまりにもできていなかった。この考え方から市民運動の思想も若ものの開発の思想も、経営開発の思想も生れてくるのである。

 JCは社会の「指導的団体」の役割をもち、そして、社会の縁の下の力もちであるべきである。またそれが、可能な団体である。

 現在のJCはたくさんあるすばらしいマニュアルを、いかにして実践に移すかが焦点である。例えば社会と人間の開発の基本的手法や、実践的指導力開発のプログラムはできあがっている。しかし行動に移しても、それがJCというコップの中の運動ではそれだけで終ってしまう。つまり閉ざされた社会の運動で終ってしまう。実践するときは、市民と一緒になって考え行動することが必要である。その具体的例が同じ未来社会に生きる若者とともに行動しようとするヤング・ブルーである。

 JCは正しいコミュティ意識を持たなければならない。その意識とは「自分はこの地域社会(コミュニティ)に住みいろいろの人間関係の中で生活している。この地域社会に起こることはどんなことにでも自分に関することである。この地域社会に住む以上どんなことでも自分一人だけのことではないし、自分一人では何もできない」ということである。

 街の運動とはJayceeがJCというコップから自ら出て、市民として、各団体と現在のコミュニティの問題について話合う所から始まるのである。そしてそれが市民会議へとすすみ、真の参加型の市民運動になってゆく。一人でも多くの市民と話し合い、考え合うところから新しいものがでてくるし、そこから新しいものへと切り変わってゆく。それにはまず、リーダーから動き出すべきである。
4.JC運動の流れ

 われわれのJC運動は創始の時代から振り返って見ると、概略三つの時代に分けることができる。それをJC一世、二世、三世の時代としよう。

 一世の時代とは、1950年代のJC運動であって、いわば創始の時代のJC運動であり、JC運動の信条と哲学について真剣な討論が行われた。その結果、JC運動とは明るい豊かな街づくりであるという信条と若者はすべてに挑戦するという哲学が創り出され、それがJC綱領としてまとめられた。つまりJC一世の時代とはVISION(ビジョン)づくりの時代である。

 JC二世の時代とは、60年代のJC運動で、志向と拡大の時代の運動である。各地にLOMが誕生し、JC運動が全国的に拡大するとともに組織拡大と理論的手法にもとづく事業計画、例えば、社会開発計画、実践指導力開発計画などがつくり上げられた時代であり、この時代のまとめとしてJC宣言文がつくられた。

 JC三世の時代とは、70年代のJC運動で実践の時代のJC運動である。一世のJCの哲学と二世の理論的手法にもとづく事業計画の上に立ち、コップの中の運動でなく街に根をはって、街の人と一緒に考え実践する市民運動としてのJC運動の時代である。

 三世の実践時代のヤング・ブルーとはわれわれの持っている信条、哲学、組織、手法を青年とともに考え、ともに行動する(GO TOGETHER WITH YOUTH)ことによって、いかにコミュニティにおいて実践し、街に密着し、根のはった明るい豊かなコミュニティづくりを推進していこうかということである。この運動が着実に行われているとき、JCの声はVOICE OF YOUTHとして社会に認められるであろう。

 三世の時代の意識というものは非常に大切である。頭の中の自由な考え方をいつまでもそのまま保っておくことが、肝要である。つまり不自然のことを不自然と思う意識が大切であり、これが無いと形成化してしまう。三世の時代は”意識の壁”を破ることによって、不自然を自然のものに戻すことを考えたい。


5.JC運動と会員意識

 JCは運動である。運動とは真剣に苦しみ悩み何かを生み出すものである。そしてJC運動とは自分で動かすものであり、決して人が動かしてくれるものではない。したがって、運動と活動の異なることに注意しなければならない。活動とはピストンであり往復運動にすぎない。

 JC運動は長いサイクルの中での運動であり、その基本はLOMの地域社会における運動である。そしてメンバー全員が地域社会のことを市民とともに真剣に考え苦しむ中から生み出されていく運動である。事業計画はリーダーが作るのではなく、会員がつくるのである。そして会員をリードするのがリーダーであり、理事長であり、常に会員のコミュニティ意識に注目し、常にこのプログラムには誰が適任かということを考え、適材適所に配置し、リードしなければならない。

 JC運動は、たとえば参加意識であるとか、街のムードがプランにのって来ないとか、いろいろの場合に壁にぶつかる。しかし壁があるからこそ運動として行われるのである。この壁を打破ることをし続けることによって、運動は展開して行く。苦しいからとか面白くないから止めるというのでは、小さな人間で終ってしまう。

 JC運動はコミュニティに常に密着していないと、運動としては無意味なJC内だけの、いわゆるコップの中の運動に終ってしまう。ところがしばしばJCは自ら自分のまわりに壁をつくってしまう。それでは自ら仲間だけの運動で終らせてしまっているようなものである。

 JCは現在の意識を変えない限り-管理社会型から参加社会型へと-コミュニティからは受け入れられない。

 JC運動の格差は意識の上の格差である。そのJCのもっている意識の幅以上には運動は広がらない。自分は意欲の高い人間か、低い人間か、JCにどのくらいの情熱をそそいでいるかをもう一度考え合ってみたい。
6.参加型のJC運動

 参加型の特徴は、会員にINITIATIVE(イニシアティブ)があるということである。会員はトップが一方的に決めたプログラムにはのってこない。プログラムは関係ある会員の参加により決められるものでなければならない。JCにおいて現在最も重要なことはメンバーに主体性をもたせる手段と意義、つまり参加型の運動をどのようにつくっていくかということである。このことはJCがボランタリーな運動であればあるほど必要なことである。

 参加の4Iというものがある。
 それはINITIATIVE つまり会員に主体性のあるものでなければならないということ。
 INTEREST つまり会員の利害関係に関心のあるものでなければならないということ。
 INFORMATION つまり会員に充分な情報を与えるものでなければならないということ。
 INFLUENCE つまり会員に影響を及ぼすものでなければならないということの4Iである。そして参加型のJC運動においては常にプログラムについて、この4つのI、つまりINITIATIVE、INTEREST、INFLUENCE、INFORMATION、が満たされているかどうかを考えなければならない。

 人口30,000人の街の40名のJCが自分たちで設問をつくり、アンケートをとり、そのまとめを街に流したとしよう。おそらくそれは街の人びとからは大して興味をもっては迎えられないであろう。何故であろうか。これはJCが作った設問であり、JCの行ったまとめであり、JCの意見であって、JCしか関心がないからである。市民の関心のもつアンケートとは市民に主体性があり、関心があり、充分な情報があり、市民に影響を及ぼすものでなければならない。市民が主体となって動く中でJCは、下働きとして働きスタートから市民として市民とともに動くべきである。

 したがって管理型の社会から参加型の社会へと変えてゆく必要がある。なぜならば参加型社会からコミュニティが生まれるからである。そしてJCは、市民の側の参加型社会のコミュニティをつくるべきである。


7.VALUE SYSTEM

 バリュー・システムとは価値の組織化、体系化ということである。

 人間はセンス・オブ・バリュー(価値観)だけで生きていたとしたら「あれか、これか」という人生で終ってしまう。人間は自分のもっているたくさんのセンス・オブ・バリューをシステムにすべきである。つまり「あれも、これも」ということである。このことが自分の欲求についてのプライオリティ(優先順位)をつけるということである。

 人間は価値観だけで生きられるものではない。真に求めるものは無数にあり、それを紙に書いて整理をし、区分けをし、それにしたがって実現可能なプライオリティをつけることが価値の組織化ということである。このバリュー・システムがないと、一つの欲求だけで他のものを犠牲にし、無意味なものにしてしまう

 JCはJC運動の中で、いかに自分のバリュー・システムをつくるかということを考えなければならない。そして自分の求めているものを明確に自分の心の中にもつようにすることが、多様化社会の中で自分を見失わないために必要である。これは国民的課題においても同じである。社会開発計画においてアンケートをつくりまとめることが社会開発であると思われているが、重要なことはそれをもとにしてプライオリティをつけ、バリュー・システムをつくることである。

 今日の日本の社会において文化の軸がなくなっている。すべて軽率なかんたんなもので逃げる傾向が強い。それは日本の社会の中にバリュー・システムがないからである。そのために真にあるべきものが忘れられている。経済の軸、政治の軸、文化の軸と同時に精神面の開発が欠けている。精神面の開発のためには、自分で自分の心を練り磨き上げるしかない。それは市民一人ひとりが本気で自分のことを考えることである。

 真理は時代の娘であると言う。生きる道理は変わりないのである。
8.VOICE OF YOUTH
 JCの意味は「VOICE OF YOUTH(若者の声)」といわれるようになることが望ましいと思う。市民からこの言葉を言われるときが真のJC運動になるときである。

 現在20~40歳までの人口は約37,000,000人いる。その中でJCのようなボランタリーな運動に参加できる人は3%で、それを男性にしぼるとすると37,000,000×0.03÷2=約550,000が潜在的会員である。現会員を30,000人とするとあと520,000人がいることになる。

 JCがこの若者の声を真に集めるとき、そのときこそ真のJC運動が始まるときである。


9.ボランタリーな運動
 JCはコミュニテイにおけるボランタリーな運動であり政治団体ではない。JCは社会開発団体として正しい圧力団体になるべきであり、JCが政治に参加することは全く意味のないことである。いろいろの人と手を結び合って開発をすすめてゆくところに正しい圧力団体としての意味がある。

 ボランタリーな運動とは自らの意志で意識的に積極的に参加すべきものであり、会員が主体性をもって参加し運動をすすめるために参加型の運営が必要である。

 ボランタリーな運動であるJC運動は人に強いられて行うものではなく、また人のために奉仕するものでもない。自らの意志で行うものである。


10.「意識3」
 三世の時代のJC運動に必要な意識を「意識3」という。それはよい人間性豊かなより自然的な意識であり、もしもあることについて、不自然なものを不自然なものと感じたら素直に意識の壁を破り自然なものに変えてゆく意識である。

 「意識1」、「意識2」、「意識3」という考え方はチャールス・A・ライクがその著書‘GREENING OF AMERICA’(緑色革命)の中で述べている考え方である。

 「意識1」とはアメリカの開拓時代に培われた伝統的な人生観であり、自分の生きるためにはしゃにむに突進してゆく意識である。「意識2」とはアメリカの偉大な発展時代の意識であり、より組織化し合理化しようとする意識である。この意識では個人の尊厳は無視され、不自然のことを不自然とは思わなくなっていく意識である。

 現在のJC運動は不自然なものがあたりまえになってしまっている。不自然なものが何であって、自然な姿は何であるかを考えてみるべきであろう。CDのアンケートにしても、会員の入会にしても、その他いろいろの面で不自然なものになってしまっている。

 われわれは再度、BACK TO BASE(原則に帰れ)という心構えで、もう一度自分自身の運動を見直す必要がある。
11.JCの形式化

 今日JC運動は形式化し無意味なものが多くなってきている。勇気あるJCは、すてるべき形式があれば大胆にすてるべきである。

 たとえば例会をみてもあまりにもテレビ型例会が多すぎる。有名人を呼んできてその話しを聞くのみで終ってしまう。このくり返しでは参加する運動ではなく帰属する運動である。例会とはお互いに何かを考えているか考えを交換し合い、さらにどうすべきかを真剣に考え合い、語り合う場であるべきである。それによって始めて会員一人ひとりに参加意識が生まれてくるのである。

 現在の形式型化した運動では、自ら喜んで参加する運動ではないものが多い。

 会員であるあなたにお願いしたいことはあなたが今隣り合っている会員と、本気になってJC運動がどうあるべきかを考えてもらいたいということである。

 認承証伝達式のよくある例をみてみよう。伝達されるJCの会員が働き、集まってきたJCが会場にはいり祝辞を聞いている。これは不自然である。伝達されるJCが準備をすすめることは当然であるが、認承式のときだけは新しいJCを会場の真中にすわらせ心からのお祝いの言葉と彼等への期待を強めることが大切であると思う。

 そのときの手伝いこそスポンサーJCの仕事ではなかろうか?

 すべてのことに形式が多すぎる。知恵を働かさないでくり返すとそれはものまね活動になってしまう。


12.JCは知的サロン

 JCは知的サロンであれと言いたい。サロンとはものの考え方を交換する場である。つまりサロンとは自分の考えを自由に語り合う場である。

 最初サロンがあった。そのサロンの中からJC運動が生まれ、時代とともに形式化して来てしまった。今やその形式化を破るときである。

 JCは人間が本気になって語り合う場であり、これを真のサロンと言う。日本的な表現をすれば、居酒屋の青春とも言われる。

 まさに知的サロンの例会というものを考えてみる必要もある。例会こそ語り合いの場である。互いに本気になって腹をうちあけて語り合う場である。あまりにもJC本来の姿は何かといぅことを語り合う場が少なすぎる。


13.居酒屋の青春

 3万人集会で足利に行き、足利JCの先輩に古き良き時代のJC運動について話しをもらった。話しの折に、私は知的サロンがJCの中に必要であることを述べたところ、先輩曰く、”それはわれわれの頃には、JCの居酒屋の青春”と呼んで、共々に酒をくみかわしながら語り合ったことだね!!まさに、そんな素朴さが必要であろう。


14.JCの三信条

 修練とはINDIVIDUAL TRAININGつまり自己の啓発であり、奉仕とはCOMMUNITY SERVICEつまり地域社会への奉仕であり、友情とは、INTERNATIONAL FRIENDSHIPつまり国際間の友情ということである。

 JCIの目的の中に「JC会員は自分が住む<まち>の中で社会開発計画の事業を展開する過程の中で自己の訓練又は修練を積み重ねること」としている。

 現在のCommunity Service(地域社会への奉仕)はCommunity Development社会開発計画として具体的論理的手法をとりあげている。このCDを通じて個人の修練を積み重ねていく。
15.JCと企業

 JCと企業についてしばしばJCと企業とどちらを優先させるかということについて討論をしていることがあるが、これは全く無意味なことである。会員はすべて企業を持つ一方で自分の自由な時間をもつべきである。われわれはボランタリーな運動に参加しているのであり、常にJCも企業もという意識をもつべきである。あまりにもわれわれにはあれかこれかという二者択一的考えが多すぎると思う。常にあれもこれもという思考ですむべきであると思う。

 JCは能力を高めるところであり、企業は能力を発揮する場である。つまりJCへの参加によって開発された能力を企業で生かし、企業活動によって得た金をJCへの参加によって使うことによって、結局はフィードバックしているものであろう。

 考え方のシステムをたくさん持つほどその人の能力は高まるのである。JCこそ、その考え方のシステムを開発する格好の場所である。

 JCと企業は両立するということに気づいた人は幸せである。なぜならばそれは自分でそれだけ多くの考え方のシステムを開発したことであるからである。何か問題のあるとき自分を楽な方向へ楽な方向へと向けてゆこうとしたのでは、JCと企業のかかわり合いはでてこない。自ら問題をどう解決していくかという前向きな積極的な精神態度が大切である。

 会員一人ひとりが自分にとってJCへの参加が何であるか、企業経営の目標が何であるかを真剣に討論してみるべきである。こういう問題が例会などで真剣に討論されるとき、真に参加型のJC運動が行われるもととなる。そこに参加意識が芽ばえるのである。

 JCと企業について考えるときわれわれが考えなければならないことは、地域社会と企業の関係である。地域社会が発展しはじめて企業の発展がある。企業の地域社会における役割、企業と地域社会との関係について、地域社会における企業という立場から考えことをコミュニティ・リレーションズ・アプローチという。

 多くの人々は学生時代までは、金と時間をかけて自分の能力をのばすために学校に行き努力するのに社会に出るとそれを怠るようになる。少なくともわれわれJCは常に自己の成長のために金と時間をかけなければならない。人間にとって体力は20~30歳位でピークになるけども、人間の能力は60歳すぎまで成長してゆく。われわれJCは常に成長をし続けそのための努力を続けなければならない。

 何となく学校にゆき、何となく卒業し、何となく仕事をし、何となく生活をしている人があまりにも多い。JCにとって必要なことは、常に自分の目標を設定して生活しなければならない。また同時にもうけた金をどのように使うかという目標設定も必要である。

 昼間、企業の時間にJCに参加しなければならないことがある。そのときは企業に犠牲をかけているということを常に忘れてはならない。またその意識の中から積極的な勉強への姿勢が生まれてくる。


16.三つのタイプの若者

 若者には三つのタイプがある。第一のタイプは”エリートとしての若もの”である。彼らは自分の社会的存在意識をもって、常に自己開発を怠らない人々であり、このようなエリートは全体の3%といわれている。

 次には、”平凡人間型の若もの”でこれはテレビ型人間である。家庭においても日常会話として<めし><ふろ><ねる>の三大生活用語の他は夫婦間に話しができない部類で、約60%をしめる。

 三つめは”スクラップ型の若者”である。ズッコケ人生とも呼べるもので、全く社会生活能力のない人々であり、アメリカの経営者仲間では、Man in their Menopause”使い物にならなくなった女の中に生きる男”と呼ばれている。


17,企業のリーダー

 人間が自分自身を動かせなくて、なぜ企業を動かすことができようか。またJCを動かすことができようか。つまり自分自身を動機づけることが重要なことである。

 そして企業は、そのトップの人間性の大きさの広がり以上には大きくならないと言われる。つまり大切なことは、自分の人間性を大きくするということである。
18,今後のJC

 現在各地JCの新入会員の入会するときの状況を見てみると、2名の紹介と入会審査ということが一般的のようである。これは知っている人がJCの中に2名いないと入会できないということである。つまり知っている人しかはいれないということで、これは全くの閉鎖社会である。本来のあるべき姿というものは、この運動の主旨に自ら賛同して、自発的意志によってコミュニティ運動に参加するという観点から幅広く会員を集め、出し入れ自由の規則にすべきであると思う。

 JCにおいて必要なことは、質を伴った量の拡大であるということは当然のことである。数の多いことはよいことである。数は力である。

 現在日本のJC運動の中には魅力ある事業があまりにも少ない。まずは事業計画から切り換えてゆかなければならない。魅力あるプログラムを自分のこととして真剣に考えなければ魅力あるプログラムは期待できない。

 JC運動において、過去を見ると発展と同時に形式化が出てきている。JC運動とは余分なものを捨て去り、新しいものを作り上げて行くところに発展がある。

 JCが600会議所、50,000人の会員になったとき、現在NOMの連絡調整機能の60%は地区協議会に委譲されてもよいであろう。そして地区協議会は地区青年会議所(たとえば東北青年会議所)というようになるべきであろう。このときNOMは国家的及び国際的問題のみを行うのである。そして100,000人の会員になったとき、入会金0、会費10,000円ぐらい、会員の出入り自由のまさにボランタリーな集団になれるであろう。このときになってスポンサーシップと参加型のリーダーシップの必要性は不可欠のものとなる。

 この状態においては魅力ある事業計画が街にPRされて、それによって参加するようになるし、いわゆる意識のある人が自由に参加できるようになり、事業計画の重要性があらわれてくる。そしてNOMの組織も大幅に変わるであろう。

 その規模に拡大したときにNOMの委員会制度は変わり、専門職の社会開発や指導力開発の担当者がいてその担当者が各地にセミナーや説明にゆくようにすべきである。

 その規模においては、現在のメンバーの層は全く一部の層になってしまう。そこには全く新しい参加型のリーダーシップと新しい発想が求められる。
19.JCと若もの運動

 ヤング・ブルーとはJC運動の中で展開している諸事業をJC会員のみによるのではなく、<まち>の若ものたちと共に考え、共に行動しようとする。呼びかけである。また、アクセント・オン・ユースとはヤングを中心とした若もの開発の実践計画を行うために青の計画として出したプログラムのキャッチ・フレーズである。

 なぜ若者が中心となって行うのであろか。それは人間は誰も他人に教えることはできず、できることはただ相手があることに気付くことを助けることのみである。つまりモチベーションが重要なのである。若もののプログラムはJCが行うのではなく若者たちが自分たちで考え、自分たちで行動するようにしJCは側面から熱心な応援を与え、見つめてやることが必要なのである。

 今日、しばしば行われている悪書を若ものからとるとか、若者の目にふれさせないということはこの情報化社会の中で正しいことであろうか。必要なことは大人と若ものとの語り合いであり、現実的な解決への意識の向上こそが必要なことである。

 この考え方の上に立つと若者の問題は、JCの側から一方的に行うことはできない。人間とはそれぞれの自己がそれぞれの年代によって自由な意識をもつものである。このことこそ若ものに対する最大のポイントである。今までの運動は一方的に与える運動であった。今こそ若ものとともに行動すべき時である。

 20~40歳の若ものに焦点をあてて共に考え、共に行動することこそヤング・ブルーである。プログラムは若者に主体性のあるものでなければならない。たとえば若者が自ら設問をつくり、集計し、まとめる、そして問題点をみつけ出してゆくということである。


20.若もの

 JCの中にさえ世代のギャップがあるのに、またJCの中でさえ会話がないのになぜ若者と対話できるかという意見がある。しかしそれは早計である。

 世代のギャップはあるかも知れない。自分自身が20代のときに30代40代と意見の合わないことがあった。20代の若者と本気になって話し合ってもらいたい。考え方のどこがちがうかを認識するまで語り合うことが大切なことである。互いにとことんまで話し合うことによって世代のギャップがどこにあるかを認識する。われわれは自ら若者と話し合うことを避けているのではないか。若者に迎合する必要はない。しかし若者はすばらしい考え方をもっている。自ら話し合うことによって相互に理解し合うことである。

 若ものの価値観と自分たちの価値観とはちがわないと思う。おそらく若者の価値観は自分が同世代のときも変わらないはずである。若ものと話し合う中に忘れていた意識が再びおこってくるものである。

 今日の若者はわれわれJCより市民意識が高い。そして個々の意識がしっかりしているが、横のつながりがないだけである。ここにわれわれの力を加えてやる必要がある。

 若ものを動かすとき実際には一緒に行動し、引っ張ることが必要であるが、一般にはそれを忘れて若ものを相対するものと考えてしまう。

 若ものは若もの自体そのゼネレーションによって考え方が異なる。どのように話し合って相違点を見つけ出すかということが、JC三世の仕事である。


21.スポンサーシップ

 今後発展してゆく運動を個人の会費だけでまかなうには限界がある。われわれはスポンサーについて考える必要がある。

 スポンサーには三つのタイプが考えられる。それは、
(1)JC運動自体に協力してくれるスポンサー
(2)事業計画に対するスポンサー(たとえば社会開発に対するぺプシコーラ、リーダーシップ・イン・アクションに対するサクセスモチベーションなど)
(3)広告に対するスポンサーの三つである。
22.酒の量が友情の深さでない

 もっとも必要なことは自分自身を本気になって啓発することであり、われわれにはあまりにも自己開発が欠けている。

 自分が受ける苦労を苦しんでのりこえるところに真の楽しみがある。

 われわれに必要なことは「いつめざめるか」ということである。それはJCのなかでめざめるべきである。

 真に人の上に立って行動しようとするためには、まず本気になって自己を訓練することである。

 酒を飲む量が友情の深さにはならない。真の友情の深さとは友人の間の心と心のオープン度である。

 自分の持っている今後のJCに参加できる年を考えてもらいたい。5年、10年、15年といろいろの人がいるが、必要なことはその中で自分が何をすべきかという目標意識をもつと同時に、1年間にどれだけの金と時間を使い、そのもとをどこでとるかということも考える必要がある。そのもとは、顕在的なものでなく潜在意識を開発して、人間的成長を求めつづけることであろう。


23.JC運動と時間

 よく「JCに参加するための時間がない」という会員があるが、時間とは求めてくるものではなく自らつくるべきものである。働かなければ金は入らないし、つくらなければ時間はできない。そして習慣を変えることが、より多くの時間づくりのきっかけとなる。われわれはよりよい時間の使い方へと挑戦しなければならない。

 そして時間がないという人ほど時間を浪費しているのではなかろうか。逆に忙しい人ほど”時間がない”とは言わない。自分の仕事と家庭生活以外に参加しているボランタリー・グループで、会員が時間がないということはまさに時間を浪費している典型的な姿であり、甘ったれである。

 JCに参加して良かったとか悪かったとか言う清算は、「時間がない」という否定的言葉がなくなって始めて得られるものである。よくあることであるが、JCがつまらないという人自身つまらないということに時間を使っているのである。

 人間が80歳まで生きるとすると700,000時間ある。そしてその内訳は50,000時間が仕事の時間であり、270,000時間が眠り、食べるなどの生理の時間であり、残った380,000時間は余暇の時間である。この時間をいかに使うかでその人生が決まってしまう。

 真の時間づくりは終るときを知り、終るときを決めることである。「時は金なり」は、すなわち「時こそ価値創造の原価」である。


24.人間的成長

 JCとしてリーダーとしての人間的成長において、もっとも大切な面の一つは、誰とでも同じように話し合える人間になるということであり、そういう人間に仕立て上げることがJCとしての会員に対する重要な責務である。誰とでも話せるということは誰とでも働き、仕事ができるということであろう。

 たとえばレストランのウエイトレスから市長にいたるまで平等に対等に話しをしてゆくことは、重要なことであるとともに努力のいる仕事である。

 これはJCが自分のものにすべき大切な目標である。とかくJCは権威に弱く、大人に迎合的である性格をもっている。正しいと思う主張や事業は堂々と展開すべきである。どんな人びととも対等に語り合い、考え合い、行動できるような人間づくりが修練の意味するところと信ずる。

 また相手(仲間のメンバーでも社員でもその他誰であっても)にどれだけ自分のことを納得させるかということは、どれだけ愛情を持って相手に語るかということと深い関係がある。

 あまりにも形式にとらわれている人が多く、それを積極的に打破する必要がある。形式にとらわれている人とは自分で形式をつくっているのである。
25.JCと選挙

 JCが選挙に参画して勝ったとき、そのJCは選挙には参画すべきであると言うが、現実に選挙に負けたJCはすべて運動は止まってしまう。それは何故であろうか。無色透明であるべきものに色をつけてしまったからである。

 JCがボランタリーな運動であればあるほど、いろいろの関係の人が会員として参加してくる。そのために、JCが選挙に参加するときには、JCの組織を離れて一市民として個人として積極的に参加すべきである。

 JCの組織自身がある特定の候補者をおして後援団体になっても市民がそれについて動くほどの説得力は残念ながら今のJCにはあまりない。JCは個人的応援をすべきである。一人の候補者のためにJCを利用することはすべきではない。一市民の立場で別の組織をつくって応援すべきである。このことはJCがコミュニティに根をおろしていればいるほど大切なことである。


26.参加姿勢 -義務から権利へ-

 どんな会員でも一人一票の権利を持っている。しばしばこの権利を持っていることを忘れてしまっている会員がいる。

 会員はJCに出席する権利があり、プログラムに参加して運動をすすめる権利があり、決して義務で行うものではない。この権利を忘れるととんでもない誤解が生ずる。つまりJCにでてこなければならないという意識で引っ張るからアテンダンス制などというナンセンスなものがでてくる。

 JCの会費が高いとか安いとかいう論議があるが、こんなに人と人とを自由に積極的に国際的にまで合わせてくれる団体があろうか。

 ミリンダ王の三恵の教えというものがある。それは聞慧、つまり知恵を働かせて聞くこと。思慧、知恵を働かせて考えること、修慧、つまり知恵を働かせて修うことで、これを積み重ねることによって人間は成長するというのである。われわれは知恵を働かせないと、JC運動は意味がなくなってしまうのである。


27.JCと行政

 JCは選挙政治に関与するのではなく、行政政治に関与すべきである。しばしば選挙政治と行政政治とが混同されることがある。

 政治によい圧力団体がつけば良い政策が出され、逆に悪い圧力団体がつけば悪い政策がだされてくる。

 今日の行政のまわりの団体は、選挙とか権利とかいろいろの利害のからみあった圧力団体で決して良いものとは言えない。つまり民主主義体制の中で住民が真に求めるものを行政に正しくインプットしてやる団体がない。JCこそこれのできる団体であり、よい圧力団体となるべきである。JCが政治に関心をもつとき、また自分の住むコミュニティに提案しようとするとき、大いなる意見具申が必要である。

 JCは調査、分析・・・・・・という社会開発計画の手法、公聴、広報などのいろいろの手法によって住民の考えをまとめ行政にインプットし、それによってでてくる行政からのアウトプット、つまり政策や予算等を市民に正しく伝える役割を演ずるべきである。そしてさらに市民の欲求を政治に入れてゆくのである。たとえば街の総予算とその使われ方のチェックなどはどうであろうか。
28.マス・ゲームのリーダーシップ

 群集心理をつかむリーダーがまだ日本には少ない。つまりマス・ゲームのリーダーシップがないのである。マスの中においては一人ひとりの理性に待つことができない。

 100人をリードするとき、1,000人をリードするとき、10,000人をリードするときそれぞれのリーダーシップは異なる。10,000人をリードするときリーダーは自分はマス・ゲームのリーダーであるというという意識をもつべきである。しかし今までマス・ゲームのリーダーシップをトレーニングする場がなかった。しかし今やわれわれは市民運動のリーダーとしてマスのリーダーシップを発揮する責任を負いかつ同時に求められている。


29.エリート意識

 エリートとはその人の持つ意識の高さの問題であって、身のまわりにつけているものの程度ではない。名刺の肩書きがその人の価値の程度を決めるのが今までの意識であった。われわれはものの考え方と意識の高さという点ですばらしいエリートであるべきである。

 意識が高くても事業計画に関心をもたない人、また行動力のない人、幼稚な運動をしているから関心がないという人は、全くどうしようもない。

 今までその人の意識の程度よりもその人の身のまわりについているもの(肩書き、仕事、資産など)で会員の資格を決めていた。これではボランタリーな運動の意味がない。その人の信条と哲学、つまり考え方があればよいのである。自分の考え方がJCの思想と合ったときに入会すればよいのである。


30.家庭教育

 JCと家庭において必要なことは、たとえば今日この集会で話したことを家に帰ってから話すかどうかということである。自分がJCにおいて、何のために何をしているかということを妻や子供に理解させることが必要である。

 家庭における話題で注意すべきことは:
 (1)人から伺った魅力に富んだ積極的な前向きの話しを茶の間で話してやる

 (2)自分の社会生活の日常体験の中で”ためになったこと””感心させられたこと””良かった事”など、人生観にプラスになったことを積極的に話す

 (3)実行可能なことはよく話し合ってすすめるように語りかける

 (4)うわさ話はしない

 (5)いやだったことは話さない、話をして相手がとまどうことは話さない

ということである。

 家庭における子供の教育についても本気になってわれわれはしているであろうか。われわれは何のために教育するか、ということから考えなければならない。

 教育とは毎日の自分の生活行動の中で行動して見せるのが真の教育である。子供は親の日頃やっている全ゆる行動を背中ごしに見習っているので、これを”背中ごしの教育”と呼んでは如何。
31.小野正孝の根底

 長野JCに入会したとき、私は現在の平均的JCよりはるかに悪い条件の中にあった。私は人の話を真剣に聞くことによって、自分の人間的広がりを大きくして行った。

 しかしもっとJCに出るためにはもっと会社に人がほしいと思った。それで一緒に企業を経営する兄二人と三人で一年に一人ずつ教育し部下を育成することを考えた。

 人づくりとは徒弟制度の中にある人づくりの愛情と信念である。そして本気になって話し合い毎日毎日の生活の中で自分の人間性を部下の中に受けついでゆくべきである。さらに必要なことは協力者を一人でも多くすることであり、協力者とは理解する人である。

 私はJCの友人、先輩からの尊い大きなもの、小さなものを積み重ねてきたから現在の会頭としての立場があり、勉強ができると考えている。まさに積重ねこそ必要であり、継続は力である。JCの友人、先輩に心から感謝する。

 私は人づくりのコツをJCで学んだし、いつも企業で生かしている。現在、私は100%自分の生活をJCにかけている。しかし入会以来のこの12年を振り返ってみると最初は99%が仕事であった。しかし時間をつくり出し、人づくりをしつつ徐々にJCのウエイトを多くすることを可能にする努力をしてきた。そしてどんなときでもJCで学んできたことを企業に生かしている。

 われわれは自分を開発するために金と時間をかけるべきである。自分で得る金をどのように使うかという方法がなければ何もならない。われわれは自分の収入の13%は自己投資のために優先して使うと言われているが、現実は「遊びには使うが学習には使わない」というのが普通であり、これでは自分の人間性は大きくならない。

 自分が今まで得た金はすべてJCのために使っている。それが結局は自分に返って来ると思う。自分のために金を投資すれば、それが結局は自分の成長につながるのである。

 私の今までを振り返ってみると、それはワンウエイからの脱出であり、体験の積重ねと1対1の人間の育成と自分自身の可能性への挑戦であった。

 人間はいろいろの立場で、その考え方は変わる。青年のときには青年らしく行きたいし、絶えず可能性に挑戦し続けたい。

 一日不作、一日不食(一日為さざれば一日食らわず)、一日何も創造しなければ、それは全く無意味な生活である。この金言は青年期(人間的成長の最適期)にあるJCの「生活標語」としておきたい。

 JCにおいてはあまりにも否定的言葉が多すぎる。この否定的言葉を日常会話からとるべきである。たとえば、時間がないという人は成長へのパスポートを捨てたことになる。習慣はつくるべきものであり、また破るべきものである。JCにおいて現実的メリットを求めることはおかしい。求めるものではなくて自ら創り出すべきである。

 始めてだからできない、古いからできるということは一概にはいえない。JCにおいては新しいからできるということの方が多い。

  Do it Now 良いことはすぐやってみよう
  Do it yourself 何事も自分自身でやろう
  Do it Best 最善をつくそう


32.大都市JC

 大都市JCの問題が話題になっている。しかし、東京JCの問題は東京の中の問題であり、他のJCもしかりである。東京の問題を例にとると3,700,000人の若者の中で、ボランタリー意識をもった人を3%とすると、1,110,000人の潜在会員がいることになる。

 JCの組織は200名位までが限界であると思う。東京は東京地区協議会にすべきである。そして東京を10に分割すると、10JCが誕生し、10人の理事長がいてその理事長10人で東京地区協議会の常任理事会を構成すべきであると思う。

 その後、私好みの考え方の中に新しい考えをもっている。それは在来の大都市JCはそのまま存続していくとして、あらたに都内の各区にJCを新設したいという機運が起きてきたならば、できるだけすみやかに、その気運を伸ばしていくべきだと考える。そして特に短期目標としては、特別市政下の都市では少なくとも各区に一JCが発足されることである。

 これがまさにコミュニティに密着したJCとしてのスタートになると考える。


33.拡大

 新設JC拡大の審査は地区協議会の権限で行うべきである。東北地区の拡大新設の問題をたとえば九州のメンバーが審査して何がわかろうか。この問題については近い将来にその地区に権限を委譲すべきである。

 標準定款なども印刷しておけばよいと思う。


34.農業問題

 各地で農業問題をどうするかという声があがっているが、農業問題は直接関係あるJCやブロックがジョイントして行うと効果があがると思う。
35.人を迎える心の姿勢

 よくJCは例会や記念式典や大会に人を迎えるが、残念ながら、簡単に人を呼びすぎる。

 ”高田好胤さんをお呼びしたい”というので、高田先輩にJCのOBということで、御無理を願ってLOMの例会に講演を願い、そして形式的に誰かサクラ質問者のような人が二・三の質問をしてお帰り願うということは、全くナンセンスである。これはJCという若者たちのやる方法ではない。
 若者であればこそ、高田好胤さんの書かれた「心」「情」「愛」を全会員が一ヶ月の間に先に読んでおき、その読んだ後で「心」の中で申されている「六波羅蜜」について、もう少しお話を伺いたいとか、「情」の中にあります、あのことについて私は、こう考えますというように、講師が主張されていることや講師に対する事前の研究、勉強をしておいてから、御出掛け願って例会の二時間を十分討議出来るようにすべきである。それ位の人を迎える心の姿勢が若ものであればあるほど必要と思われる


36.あなたの Ship はどこに

 最近は指導者が不足する時期だと言われている。これは形だけのリーダーであって、リーダーシップをもったリーダーがいない事を意味する。スポーツマンは多くなっている。

 ゴルフでも何んでもそうであるが、スポーツマンシップのないスポーツマンが多い。セールスマンも多くなったが、セールスマンシップをもっていない。JCマンもいますがJCマンシップをもっていない。本来期待されるのは

 Leadership のある Leader
 Sportsmanship のある Sportsman
 Salesmanship のある Salesman
 Jayceemanship のある Jaycee であろう。

 このShipシップとはなんでしょうか。これは端的にいえば<らしさ>であると思う。<らしさ>とはみせかけのものではありません。その道の真理を求める純粋な精神態度でもある。現実には、皆、外見の上の<らしさ>だけに終っている。必要なのは精神面、態度、発想の基本自身に<らしさ>を身のつけることであると思う。


37.女房とJaycee
 1.毎日帰ったら、その日の日常活動の中で自分に<ためになったこと>について必ず話をしてやる。その時間だけ早く、バーを切りあげて帰る。
 2.JC新聞、30億を女房に読む機会をつくってやる。
 3.JCの会合にはできるだけ多くつれだすこと。
 4.自分のJC運動の場を子供に見せてやる。
 5.できる限り国際青年会議所の世界会議に、夫婦同伴で参加すること。
 6.何より大切なことは、自分が何のためにJCに参加しているか、何を、いま目的、目標としているか、これ等について女房に話をしておくこと。そしてその目標達成のために協力を得るように努力することである。


38.直前理事長の効用

 直前理事長こそ居酒屋の主人公になってほしい。それは新入会員(特に入会2年目くらいまでの)と1ヶ月に2日は夜の時間をあけて、その夜はただ、酒とつまみだけで、居酒屋の一室で、人生論といえば大げさだが、恋人の話や、仕事の話やJCの話や百面山話を自由にする機会を一年間毎月続けることである。

 1ヶ月に2日あけてあれば、新入会員もどちらかの日に都合をつけて必ず出てきて話し合う。これができれば、これほどの楽しみはない。その話の中からJC運動への妙案はたくさんでてくると思う。これによって世代の断絶も、全く解消されてくるであろう。
 その時には<オンナ>が入らないことが鉄則。


39.JC歴は権威にあらず

 「オレはJC歴何年だ。OOOも知っている」
 「オレはチャーターメンバーだ。あの頃は楽しかった」
 「オレは地区大会にOO年からずっと出ている」
 これに似た、過去を語って誇らしげに話す人がいるが、全く残念である。たかが、それ位のことで、あまり誇示されないでほしい。そんな過去を誇っていることは、むしろ現在は停滞していることを自己紹介していることの裏返しである。
40.LOMのJC歴も権威にあらず

 LOMのJC歴の古さは権威ではない。むしろ永い歴史の中から見れば、20年や30年はまだまだ、かけ出しの域である。

 また、JCはだいたい10年で会員が交替するようになっているので、10年前のJC運動は、10年前のその時点における運動であって、今日、今年の運動ではない。


41.褒賞は栄誉ではありません

 私の長野JCが、社会開発賞と指導力開発賞とアクセント・オン・ユース賞をJCIで受賞しました。これは「世界一すばらしい運動を展開した」と解釈するのではなく、われわれ長野JCの運動展開の方法が、世界中のJCの皆様から、その運動方向が間違っていないことを証明してくれたのであるから、今後も自信をもって続けていきなさい。

 このように解釈して「今後もますます自信をもって進んでいこう」としなくてはならない。決して栄誉であるなどと、チッポケな気持ちで盃をあげてはならない。


42.これから10年JC運動をやる若ものへ

 あなたはJC運動の中で目標を具体的にもっているか?

 あなたが青年会議所の会員として先10年あるときに、10年先の1982年の目標は余りにも先であって、気が遠くなりすぎる。そう思うなら3年先までの一つの期間としたらどうであろうか。

 これから3年間で、アクセント・オン・ユースのプログラムをマスターしてみせる。そのあとの3年間で、指導力開発をマスターしてみせる。というようにしてである。

________________________________________
1973,74,75  →アクセント・オン・ユースのマスター ●若ものと語り会う
●グループづくり
●グループの組織化
1976,77,78  →指導力開発のマスター ●LIAのトレーニング
●ロバート議事法のマスター
●JK法マスター
●精神開発
1979    →LD委員長のトレーニング
1980    →副理事長のトレーニング
1981    →理事長のトレーニング
1982    →直前理事長としての居酒屋の主人公
________________________________________

 大きく書いてみれば1982年にはどんなデッサンも描けるし、その時時によって変えていける。

 目標の定まらない青年に、真に若もののもてる情熱は湧き出るものではない。

 目標が明確化されれば、自づと計画性も欲望も自信も決断力も生まれてくると信じる。


43.連続的思考からの脱出

 「昨年はあれだけ売れた今年もこれだけ売れたから来年も多分売れるであろう」という連続思考は除去されなければならない。JCの諸行事の中や諸事業の中にも、同じことが言える。

 去年のあの事業は成功したから今年も成功するであろう。こういう連続的思想は、危険な場合が多い。

 特に形式的に流れやすい例会、認証式、ブロック大会、地区大会、O周年式典など、多くのものに、主催する一部の担当関係者だけの満足感を満たすために何千人の人が単に「がんくび」を揃える。義理で犠牲にされていることがしばしばあるようだ。これは早く打ち破ることが必要でしょう。
44.OO周年に歴代理事長の表彰=珍景

「10周年にあたり、歴代理事長に感謝状と記念品をお贈りします」これまた、なんと珍景でしょうか。JC運動は理事長によってなされているのではない。もし本当に過去の運動に感謝の意を表すならば、そのLOMのJCOBの会員に10周年を記念して感謝状を贈るべきである。理事長以上に縁の下の力もちになったOBの方にも贈られて当然である。

このようなときにこそ、普段目立たない先輩の労をねぎらうべきである。また、そのような態度であればOB側歴代理事長からのみの御祝儀が、全OBの皆様から、より多くの御祝儀も積極的に喜んで出していただけるかもしれない。

 (笑)発想の転換の実践をすすめたい。


45.幼稚園的遠足型大会参加の終えん

1972年度全国大会は甲府JCの勇気ある決断によって開会式場に地区別LOM別の座席指定机をなくし、早く来た人は良い席に座れるようにした。これは当然のことと思う。「正しくむくわれる」という考え方です。

それよりも、むしろ、一人でも多くの全国のJCの友人と語り合える場が全国大会であるという認識が大事である。それなのに全国大会にきても、同じ<まち>から手をつないだまま、開会式、分科式、閉会式、パーティーと歩いていたのでは、無理して甲府まで来る必要は全くありません。全国大会やブロック大会、いずれにしても、自分の<まち>から他のJCに出ていったときは、一人でも多くの他のJCと名刺交換から始まって、仕事の話やLOMの委員会の話や、趣味の話をして友達づくりをする積極的JC外交をすべきです。

はなはだしきは、他人と話をすれば、損をするような顔つきの人もいるがそのようなことなく大いにイメージチェンジをされることを期待します。


46.誰とでも話せる人になろう

とかくわれわれは、たった一つのJCの組織の中でも限られた人としか話さないような、心の狭いJCになってしまうことは、残念である。会頭でも、JC0Bでも、新入会員でも、そんなことを意識せずに、誰とでも心のへだたりをもたずに相手の立場を理解して話せる人になれるように訓練することから友情のキヅナをつくろうではないか。

それが習慣になれば一般社会生活の中でも、大学教授でも、市長でも、守衛さんでも、新入社員でも、若ものとでも自由に話せる心の幅の広い自分がつくられていくと思う。


47.自己紹介を自分から先に

先手必勝といわれるが、人と初対面のときに自分から先に自己紹介した方が、二人の話しの中で指導権をにぎると思う。

また、JCの中では、役員から先に一般会員に語りかけることが役員の目に見えない責務だと思う。

特に日本JC役員は、常にこれを守ることが必要であろう。


48.JC役員は名誉職でない

JC運動はリーダーシップのトレーニング・スクールの役割も一面にはある。そのことからすると、JCの役員になったことは、すなわち自己改造の機会-リーダーシップの訓練の機会を与えてくれたのであって、名誉職をあたえられたのではない。
49.発想の転換

 人もしおのれを愛しと思わば
 よくおのれを守れ
 若きときか、壮年の時か、老年の時かに
 一度は賢者は目覚めよかし

 という先人の言葉がある。この目覚めることは、現代語におきかえると”発想の転換”を意味するでしょう。

 たとえば新入会員が、入会当時悩むことは、「時間がJCにとられてしまう」と、よく言われるが、これは当然である。今まで、仕事と家庭と遊びの三つの場にだけ生きていた人が、新しくJCという運動の場を自ら求めて会員になれば、もちろん、その運動参加のために時間が必要になる。だから、そのためには、JC入会と同時にいままでの三つの場にふり分けていた時間を改めて四つの場に分けるには、どうしたらよいかを考えることと、その時間をつくるように習慣を変えることが大切である。この時間のつくり方自身に、発想をかえる必要がある。


50.人を迎える心

 私はこの会場にくるまでに、片道15時間以上をつかって汽車に乗ってきました。しかるに、この例会を見ていると、必要もない、くだらない報告や連絡事項を長々と1時間もやっている。そして、私の話の時間を「40分くらいでお願いします。」とは、しんから頭に血がのぼる。その時の理事長をはじめ役員の発想の転換を期待したい。そんな調子でやっているLOMは、出席率も悪くなるのは当然である。


51.OBと現役

 何故JCは40歳定年制を持っているのか?それはあくまでも、若ものの発想を大事にすることであろう。したがってOBが現役の人事問題や事業内容に口をはさんでいるLOMはどんどん遅れていることは事実である。

 それは、OBは生理的にも実情把握からも、また現実として、JC運動の主体性がない人が現役の役員人事にプレッシャーをかけることは、すなわち、若ものの自主性を失わせているのであり、全くナンセンスである。

 ”発想の転換”は、そのようなノスタルジックなOB自身の頭の中の構造をかえてほしい。私も間もなくOBになるが、JCにたいしては”金は出しても口は出さないOB”になりたい。ただ、参考意見として現役から聞かれたときは、その質問の範囲内で、私の意見を申し上げるのみ。

 主体性はあくまで、現役である。
49.発想の転換

 人もしおのれを愛しと思わば
 よくおのれを守れ
 若きときか、壮年の時か、老年の時かに
 一度は賢者は目覚めよかし

 という先人の言葉がある。この目覚めることは、現代語におきかえると”発想の転換”を意味するでしょう。

 たとえば新入会員が、入会当時悩むことは、「時間がJCにとられてしまう」と、よく言われるが、これは当然である。今まで、仕事と家庭と遊びの三つの場にだけ生きていた人が、新しくJCという運動の場を自ら求めて会員になれば、もちろん、その運動参加のために時間が必要になる。だから、そのためには、JC入会と同時にいままでの三つの場にふり分けていた時間を改めて四つの場に分けるには、どうしたらよいかを考えることと、その時間をつくるように習慣を変えることが大切である。この時間のつくり方自身に、発想をかえる必要がある。


50.人を迎える心

 私はこの会場にくるまでに、片道15時間以上をつかって汽車に乗ってきました。しかるに、この例会を見ていると、必要もない、くだらない報告や連絡事項を長々と1時間もやっている。そして、私の話の時間を「40分くらいでお願いします。」とは、しんから頭に血がのぼる。その時の理事長をはじめ役員の発想の転換を期待したい。そんな調子でやっているLOMは、出席率も悪くなるのは当然である。


51.OBと現役

 何故JCは40歳定年制を持っているのか?それはあくまでも、若ものの発想を大事にすることであろう。したがってOBが現役の人事問題や事業内容に口をはさんでいるLOMはどんどん遅れていることは事実である。

 それは、OBは生理的にも実情把握からも、また現実として、JC運動の主体性がない人が現役の役員人事にプレッシャーをかけることは、すなわち、若ものの自主性を失わせているのであり、全くナンセンスである。

 ”発想の転換”は、そのようなノスタルジックなOB自身の頭の中の構造をかえてほしい。私も間もなくOBになるが、JCにたいしては”金は出しても口は出さないOB”になりたい。ただ、参考意見として現役から聞かれたときは、その質問の範囲内で、私の意見を申し上げるのみ。

 主体性はあくまで、現役である。
52.自己啓発とJaycee

 JCIの目的の中に、会員の住むそれぞれの地域社会の開発のための諸事業を推進する過程において個人の訓練を積み重ねるとある。これは自己開発の具体的手法を明確にしていると考えられる。

 したがって、JCとして、この運動に参加する以上は、この運動の参加から直接間接に自己の開発を効果的に得ることのできる場であると認識することである。そのために必要なJC会費は、自己開発費であると考えればよい。

 成長しようとする人間は、自分の年総収入の13%以上を優先的に自己開発に使うとされている。これからすると40歳までには、優先してJC会費を出して充分そのため活用することが望ましい。会費は安い。青年であれば、イジでも会費が高いなんて言いたくない。むしろ、それだけ余計に儲ければよい!!


 これも‘発想の転換”で楽しきかなJaycee。


1992年、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された「地球環境サミット」において、スターチャイルドが行ったスピーチをご紹介します。わずか12歳にして、大人を圧倒させたこの感動的なスピーチは、「リオの伝説のスピーチ」として、世界中で語り継がれるようになりました。

実際のスピーチの映像もYOUTUBEで見れます。
http://www.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg

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こんにちは、セヴァン・スズキです。エコを代表してお話しします。エコというのは、子供環境運動(エンヴァイロンメンタル・チルドレンズ・オーガニゼェーション)の略です。カナダの12歳から13歳の子どもたちの集まりで、今の世界を変えるためにがんばっています。

あなたがた大人たちにも、ぜひ生き方をかえていただくようお願いするために、自分たちで費用をためて、カナダからブラジルまで1万キロの旅をして来ました。今日の私の話には、ウラもオモテもありません。なぜって、私が環境運動をしているのは、私自身の未来のため。自分の未来を失うことは、選挙で負けたり、株で損したりするのとはわけがちがうんですから。

私がここに立って話をしているのは、未来に生きる子どもたちのためです。世界中の飢えに苦しむ子どもたちのためです。そして、もう行くところもなく、死に絶えようとしている無数の動物たちのためです。


太陽のもとにでるのが、私はこわい。
オゾン層に穴があいたから。

呼吸をすることさえこわい。
空気にどんな毒が入っているかもしれないから。

父とよくバンクーバーで釣りをしたものです。
数年前に、体中ガンでおかされた魚に出会うまで。


そして今、動物や植物たちが毎日のように絶滅していくのを、私たちは耳にします。それらは、もう永遠にもどってはこないのです。

私の世代には、夢があります。いつか野生の動物たちの群れや、たくさんの鳥や蝶が舞うジャングルを見ることです。でも、私の子どもたちの世代は、もうそんな夢をもつこともできなくなるのではないのでしょうか?


あなたがたは、私ぐらいの歳の時に、そんなことを心配したことがありますか。


こんな大変なことが、ものすごいいきおいで起こっているのに、私たち人間ときたら、まるでまだまだ余裕があるようなのんきな顔をしています。まだ子どもの私には、この危機を救うのに何をしたらいいのかはっきりわかりません。


でも、あなたがた大人にも知ってほしいのです。あなたがたもよい解決法なんて持っていないっていうことを。


オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか、あなたは知らないでしょう。死んだ川にどうやってサケを呼びもどすのか、あなたは知らないでしょう。絶滅した動物をどうやって生きかえらせるのか、あなたは知らないでしょう。そして、今や砂漠となってしまった場所にどうやって森をよみがえらせるのかあなたは知らないでしょう


どうやって直すのかわからないものを、こわしつづけるのはもうやめてください。


ここでは、あなたがたは政府とか企業とか団体とかの代表でしょう。あるいは、報道関係者か政治家かもしれません。でもほんとうは、あなたがたもだれかの母親であり、父親であり、姉妹であり、兄弟であり、おばであり、おじなのです。そしてあなたがたのだれもが、だれかの子どもなんです。


私はまだ子どもですが、ここにいる私たちみんなが同じ大きな家族の一員であることを知っています。そうです、50億以上の人間からなる大家族。いいえ、実は3千万種類の生物からなる大家族です。国境や各国の政府がどんなに私たちを分けへだてようとしても、このことは変えようがありません。


私は子どもですが、みんながこの大家族の一員であり、ひとつの目標に向けて心をひとつにして行動しなければならないことを知っています。


私は怒っています。でも、自分を見失ってはいません。


私は恐い。でも、自分の気持ちを世界中に伝えることを、私は恐れません。


私の国でのむだ使いはたいへんなものです。買っては捨て、また買っては捨てています。それでも物を浪費しつづける北の国々は、南の国々と富を分かちあおうとはしません。物がありあまっているのに、私たちは自分の富を、そのほんの少しでも手ばなすのがこわいんです。カナダの私たちは十分な食物と水と住まいを持つめぐまれた生活をしています。時計、自転車、コンピューター、テレビ、私たちの持っているものを数えあげたら何日もかかることでしょう。


2日前、ここブラジルで、家のないストリートチルドレンと出会い、私たちはショックを受けました。ひとりの子どもが私たちにこう言いました。

「ぼくが金持ちだったらなぁ。もしそうなら、家のない子すべてに、食べ物と、着る物と、薬と住む場所と、やさしさと愛情をあげるのに。」

家もなにもないひとりの子どもが、分かちあうことを考えているというのに、すべてを持っている私たちがこんなに欲が深いのは、いったいどうしてなんでしょう。


これらのめぐまれない子どもたちが、私と同じぐらいの年だということが、私の頭をはなれません。


どこに生れついたかによって、こんなにも人生がちがってしまう。私がリオの貧民窟に住む子どものひとりだったかもしれないのです。ソマリアの飢えた子どもだったかも、中東の戦争で犠牲になるか、インドでこじきをしていたかもしれないのです。


もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えばこの地球はすばらしい星になるでしょう。


私はまだ子どもだけどこのことを知っています。


学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世のなかでどうふるまうかを教えてくれます。
たとえば、
  *争いをしないこと
  *話しあいで解決すること
  *他人を尊重すること
  *ちらかしたら自分でかたずけること
  *ほかの生き物をむやみに傷つけないこと
  *分かちあうこと
  *そして欲ばらないこと


ならばなぜ、あなたがたは、私たちにするなということをしているんですか。なぜあなたがたがこうした会議に出席しているのか、どうか忘れないでください。そしていったい誰のためにやっているのか。それはあなたがたの子ども、つまり私たちのためです。あなたがたはこうした会議で、私たちがどんな世界に育ち生きていくのかを決めているのです。


親たちはよく「だいじょうぶ。すべてうまくいくよ」といって子供たちをなぐさめるものです。あるいは、「できるだけのことはしているから」とか、「この世の終わりじゃあるまいし」とか。しかし大人たちはもうこんななぐさめの言葉さえ使うことができなくなっているようです。


おききしますが、私たち子どもの未来を真剣に考えたことがありますか。父はいつも私に不言実行、つまり、なにをいうかではなく、なにをするかでその人の値うちが決まる、といいます。しかしあなたがた大人がやっていることのせいで、私たちは泣いています。


あなたがたはいつも私たちを愛しているといいます。しかし、私はいわせてもらいたい。もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを行動でしめしてください。


最後まで私の話をきいてくださってありがとうございました。


by セヴァン・カリス=スズキ


Posted by 木村英博 at 21:01│Comments(0)
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